マイケル・ハドソン「超帝国主義」p.2

アメリカには後退し続ける西部フロンティアが必要であるという考えは、民主党によって語られた。その主な動機は、奴隷所有者が綿花栽培をカリブ海まで南下させる一方、西への領土拡大を進め、奴隷労働者に低価格の食料を提供するために小麦栽培を拡大したいというものだった。民主党は、関税を引き下げ、食料と原材料の輸出に頼り、海外(主にイギリス)から製造物を購入することを目指した。これに対して、共和党の保護主義者は、関税の壁のこちら側に製造業の国内市場を築こうとした。共和党の産業擁護派は、ペンシルベニアからニューヨークを経てニューイングランドに至る東部都市部の技術的近代化に重点を置いていた。

民主党は英国びいきだったが、共和党の戦略家は長い間英国恐怖症の歴史を持っていた。特に、聖職者を養成するために設立された国内の主要大学を支配していた英国の自由貿易の教義に反対した。南北戦争後、州立のランドグラントカレッジやビジネススクールが作られたのも、保護主義的な教義を推進するためだった。リカルドやマルサスの経済理論とは対照的に、これらの新しい大学は、アメリカ文明の経済的ダイナミズムを、農業や工業における収益の増大に基づいて説明し、生活水準の向上が新しい社会道徳をもたらすと認識した。保護主義者のサイモン・パッテンは、アメリカ文明を、階級闘争や貧困労働、賃金水準の引き下げに基づく海外市場獲得競争に苦しむヨーロッパ社会と重ね合わせた典型的な人物だった。1890年代から1910年代にかけてペンシルベニア大学のウォートン・スクールで教鞭をとったパッテンの教え子には、フランクリン・ルーズベルトのブレーンであるレックス・タグウェルや社会主義者スコット・ネアリングなど、後に著名な人物がいた。

ヨーロッパの帝国主義的な対立は、土地貴族の領土的な野心と、ヨーロッパの労働者階級と自国の市場が貧しすぎて、アメリカにあるような工業製品を購入できないことに起因していると考えられていた。共和党の国家主義者にとっては、米国に植民地は必要なかったのである。その関税収入は、外国の征服に使うよりも、国内の改良に使ったほうがよいからであった。