マイケル・ハドソン「超帝国主義」p.19

資産貨幣(金)から負債貨幣(米国国債)への移行は、国際収支と国内通貨調整との間の伝統的な関係を一変させた。1968年以前の常識では、赤字を抱えた国は、金利を引き上げて海外からの借金を増やし、政府支出を削減し、国内の所得成長を鈍らせることによって、支払いの流出を食い止めるまで金を手放す義務があると考えられていた。1960年代にイギリスが行ったストップ・ゴー政策がそれである。経済が好調になると、人々はより多くの輸入品を買い、より多く海外で消費した。そのため、イングランド銀行は金利を引き上げた。新規建設などの投資意欲が減退し、景気が悪くなった。政府レベルでは、英国は帝国への夢を断念せざるを得なかった。世界の主要な軍事・政治大国であるためのコストを支払うだけの、民間の貿易・投資黒字を生み出すことができなかったからだ。

しかし、世界の主要な赤字国であるアメリカは、この調整メカニズムに背を向けたのである。世界一の赤字国であるアメリカは、この調整メカニズムを無視し、国内政策を「外国人に指図させない」と宣言した。第一次世界大戦後、国際連盟に加盟せず、国際的な経済ゲームに参加しなかったのも、このような独立独歩の姿勢によるものであった。世界銀行やIMFに加盟したのも、国連安全保障理事会のメンバーとして独自の拒否権を付与することを条件としていた。つまり、アメリカの外交官がアメリカの利益にならないと判断するような経済ルールは課せられないということであった。

1971年以降のルールは、イギリスとは異なり、アジアをはじめとする世界各地での冷戦時代の支出や、国内での社会福祉支出を制約なく行うことができることを意味した。これは、イギリスのストップ・ゴー政策や、IMFが第三世界の債務国の収支が赤字になったときに課した緊縮財政の逆を行くものであった。