マイケル・ハドソン「超帝国主義」p.26

その代わりに、米国当局は、「自由市場」のイデオロギーや海外の経済的可能性に関係なく、繊維、鉄鋼、自動車、食品について、国ごとに市場シェアを指定する「秩序あるマーケティング合意」を要求した。欧州共同体(European Common Market)は、米国農家のために穀物市場の一定のシェアを確保するように言われた。ただし、外国が米国の輸出禁輸措置の結果を被ることを義務付けられる場合はこの限りではない。民間の契約は破棄され、米国の経済を安定させるために外国の経済を不安定にした。

要するに、アメリカの外交官は外国政府に対して、アメリカの国家目標のために自国の貿易と投資を規制するように迫ったのである。外国経済は、米国の国内需要を上回る米国産品の残余市場としての役割を果たすが、品薄の時に米国産の商品を購入することによって、これらのニーズに押しつけることはできないことになっていた。1970年代初頭、世界の食糧や木材の価格が米国の国内価格を上回ったとき、米国の農家は生産物を輸出するのではなく、自国内で販売するよう命じられた。

このように、アメリカは世界価格が上昇する中で、国内価格を抑えるために輸出規制を行った。一方、米国内では物価の安定を図るため、外国政府には不足を補い、自国の経済を発展させることが求められた。その結果、アメリカ国内の物価と賃金、外国の物価と所得の間に乖離が生じた。最も大きな乖離は、アメリカ政府の世界的な外交の推進と、自国の経済的自立を守ろうとする他国政府の目的との間に生じた。海外における保護主義的な圧力は、ワシントン・コンセンサスに内在する二重基準が強固なものとなるにつれ、米国外交によって速やかに打ち破られた。

米国の資本財やその他の資材の価格が世界価格を上回ったとき、米国政府は世界銀行に、米国内の資本財や資材を購入する顧客に対する融資を、米国が保有する25%の出資比率を反映して配分するよう求めた(不成功に終わった)。日本は、米国産木材、金属くず、植物油の輸入に「自主規制」をかける一方、米国への繊維、鉄、鋼の輸出を制限するよう求められた。米国の政府機関、州、自治体も「バイ・アメリカン」ルールに従った。