「文明の命運」p.23

要約すると、産業資本主義が19世紀に台頭したときの指針となる政策の推進力は、基本的な経済サービスが不可欠である場合、補助金を支給するか無料にすべきであり、民営化されたレントを生み出す独占に任せてはならないというものであった。当然の結果として、銀行業務が民間の手に委ねられる限り、投資を拡大するように銀行業務を改革する必要があった。事実上、貨幣と信用の創造は、混合経済において他の基本的なサービスとともに公益事業として機能するだろう。

第2章で説明するように、それは実現していない。

    • -

マイケル・ハドソン著「文明の命運」第1章の翻訳が終わった。
続けることが第一優先で、毎日平均で1ページの翻訳という亀のようなノロさである。

金曜の夜に、中野孝次氏の「ローマの哲人 セネカの言葉」を読んだ。
特に心を揺さぶられた文章を以下記す。

「セネカは、本書(「人生の短さについて」)で彼が言いたい第三の主題 ー 哲学に志す者はあらゆる時代の賢人と一対一で付き合うことができる ー に入る。これは思いがけない転回のように見えるけれども、よく読めばそれこそが、人が永遠を得る道であることがわかる。古今東西の賢人と付き合うことが叡知を求める行為であり、それこそ人の「今ココニ」が永遠と直結する時なのだ。」

「いかなる時代も我々に拒まれておらず、いかなる時代にいてもそこに入ることが許されています。この偉大な魂の世界を通って、人間の弱さを超えたところへ出てゆくことが可能なら、そこには我々が縦横無尽に歩き回ることのできる途方もなく大きな時間帯があります。」

「自然がいかなる時代との交際に入ることも許してくれる以上、どうして、この短くはかない時の移ろいを逃れ、全身全霊をあげて、あの計り知れぬ世界、永遠なる世界、より善きもの結ばれた世界へ入らないでいいものでしょうか。(「人生の短さについて」14-1・2)」

「結局のところ、この「人生の短さについて」でセネカは、人は自分の権能のうちにあるもの(心とか精神の力)だけを信じ、それのもたらす喜びだけを本物と思うべきであり、それ以外の自分の権能の外にあるもの、とくに偶然や運命のもたらすものに頼ったり、それを信じたりしてはいけない、ということを様々な角度から説いているのだと、終りになって気づく。さらに、これを書いているとき、彼自身が運命のもたらした最高の地位と責任と幸運の中にあるだけに、その偶然に頼るなという教えにしても、単に説教として無責任に言われているのでなく、実に切実な、彼の自分自身に対する叫びのように、悲痛にさえ聞こえるのである。」