「文明の命運」p.11

第1章:産業資本主義の改革プログラムは、不労所得者から市場を開放する

あらゆる経済理論は、ある階級や国家の視点を多と比較して表現する傾向を持つ。したがって、経済学は本質的に政治的である。その言語と基本的な概念は、人々が経済がどのように機能するかを考え、したがってどのような政策を支持するかを形作るようにデザインされている。

過去2世紀の論点は、地主、銀行家、または独占者が得る収入が、商品またはサービスを生産することで得られる「収益」と呼ばれるのか、それとも「経済的レント」と呼ばれるのかということである。実際に働いたり、本質的な価値を提供したりせずに受け取った、不労所得として定義される。価値のない「無の」価格の概念は、19世紀に発展した古典派経済学の本質だった。その策定者は、徴税人以外への経済連との支払いを最小限に抑えようとした。

しかし、その世紀の終わりまでに、地主と独占者の擁護者は、経済的レントなどは存在しないと主張した。このポスト古典派は、支配的な経済イデオロギーとなり、経済の成長または縮小の測定を目的とした国民所得と国内総生産(GDP)統計を作成する支配権を獲得した。経験に基づく科学的尺度であると主張されているものは、最も裕福な階級が経済成長を助けているのか、それとも規制的に行動しているのかという非常に政治的な問題に基づいていることが明らかとなった。金融、不動産、独占収入で富裕層が裕福になっているのは、実際には実質生産量を生み出すことなく、経済の物価水準(生活費や事業費)を増やすだけではないだろうか?

今日の学術的な主流は、不労所得層によって捉えられている。この現代の学派が、基本的な仮定、論理、そして何よりも19世紀の古典派経済学者によって展開された価値、価格、地代の理論に対して、正反対の対応であることは、ただちに解るものではない。古典派の目的は、封建後の不労所得層の侵入力を制限することによって産業資本主義を促進することだった。アダム・スミス、デビッド・リカード、J. S. ミル、そしてカール・マルクスでさえ、学問分野としての経済学の創始者として引用されるが、彼らの基本的な概念が今日否定されていることは認められていない。正確に言えば、彼らの共通の目的は、今日の金融資本主義を蝕むレントシーキングや金融問題をを避けることだからである。