マイケル・ハドソン「超帝国主義」p.410

貿易交渉は死活問題になっていた。ドルの切り下げによって、アメリカが1960年代に認めていた関税譲許のほとんどが帳消しになったのだ。7月14日、ベルギーのサベナ航空がボーイング737型機を10機、1機約600万ドルで発注した。1969年当時、この2機の価格はほぼ同等であったが、ボーイング機の115人乗りに対してフランス機は140人乗りであったため、フランス機に軍配が上がった。この結果、アメリカからの軍事的・技術的自立の基盤として、純ヨーロッパの航空機産業を構築するというヨーロッパの希望は挫折した。

自由貿易に対するアメリカのもう一つの打撃は、ニクソン大統領が議会から、外国経済が貿易計画に同意せず、自国の生産者に「自発的な」輸出割当を課すことに同意しない場合、国ごとに輸入課徴金を課す権限を得たことであった。米国の貿易交渉担当者はまた、イギリス、アイルランド、デンマークを含む共同市場の拡大により失われたアメリカの輸出に対する補償を求めた。共通農業政策(CAP)によって、これら3カ国へのアメリカの穀物輸出は年間1,000万トンほど減少すると推定し、5年以内に共通市場が穀物の純輸出国になり、ライバルになることを恐れたのである。アメリカは、他の国々が「農業分野における有意義で現実的な交渉」、具体的にはCAPの破棄を事前に約束しない限り、世界貿易交渉に参加することさえ拒否した。この要求は1990年代に入っても続いていた。

アメリカがヨーロッパと日本に何を求めていたかは、韓国との協定案「韓国の輸出業者が米国市場から一定量の原材料を輸入することを義務づける」ことで明らかになった。もう一つの面では、アメリカは共同市場が提案した旧アフリカ植民地の準加盟資格に打撃を与え、他の先進国に逆優遇措置を与えるような第三世界諸国には、アメリカの新たな関税優遇措置を与えないことを明確にした。

1945年当時、ヨーロッパの植民地主義を解放するものとして登場したものは、世界経済をアメリカへの新たな依存、とりわけアメリカの農業、航空機、軍事関連技術への依存に固定化しようとするアメリカの試みであることが判明した。アメリカの計画は、外国が食糧穀物、武器、技術をアメリカに依存するようになり、アメリカ経済がそのような支配の対価を支払うための外貨を生み出さないという事実とは関係なく、アメリカの投資家にその司令塔を売り渡すことだった。