マイケル・ハドソン「超帝国主義」p.414

国際的には、アメリカは世界中で年間60億ドルもの軍事費を負担し、東南アジアでは不名誉な敗北を喫し、多極化する世界の中で単なる一国に戻ることなくヨーロッパその他の地域から撤退することはできなかった。アメリカの巨大な農業力は、衰えた輸送システムによって制約を受け、世界のあらゆる地域との輸出契約を破棄し、アメリカが効果的に適用してきたのと同様の農業保護主義を背景に農業投資を促進することによって、必要不可欠な食糧の自給自足を求めるように促した。このような反応は、1945年とその間の数年間、アメリカの経済計画者たちが必死に食い止めようとしてきたことであった。

アメリカの国際収支が根本的に改善する見込みは薄いと思われた。1973年にドルが10%切り下げられ、1971年12月のスミソニアンによる11%の切り下げと合わせると、軍事費全体の為替コストは年間3億ドル増加したと報告されている。一方、民間部門の貿易赤字は、エネルギーやその他の原材料の支払いが増加した結果拡大し、株式市場の暴落は海外からの投資流入を抑制した。

米ソ同盟?

アメリカは1920年代のドイツと同じような立場に立たされた。資本主義の同盟国とうまく競争できないアメリカは、輸出の伸びを期待してソ連に目を向けた。この転換は、アメリカのソ連との冷戦緊張の解消に役立った。結局のところ、米ソ経済はほぼ補完関係にあった。ロシアは小麦を必要とし、金と石油の主要生産国であった。

1945年当時、米ソ貿易は戦争で疲弊したロシアにとってより重要なものに思えたが、今ではアメリカにも同等の利益をもたらしているように見える。この新しい状況に対する認識が、冷戦の皮肉な展開をもたらした。アメリカは余剰穀物をソ連に売却し、現金と、おそらくは金を得ることに同意したのだ。冷戦の通商政策は、もはやアメリカにも同盟国にも望まれなくなり、アメリカ政府高官は、ソ連や中国との貿易という最も有望な手段で外貨を財務省に引き入れようとした。鉄のカーテンが取り払われ始めたのだ。