マイケル・ハドソン「文明の命運」p.238

プラトン、アリストテレス、その他の古典ギリシャの哲学者は、冒頭で述べたように、富の中毒という現象を社会分析の中心に据えていた。今日のレンティア派の学術経済学は、この普遍的な現象を限界団結の逓減という仮定に置き換えている。あたかも富裕層がバナナやチョコレートケーキを食べるのと同じように、金融資産に飽きるかのように。しかし、現実には、レンティアが富を増やすと、それを共有しようとはしなくなる。自分たちのものにして、さらに儲け続けたいのだ。そのために、彼らは、自分たちの収奪を制限したり、主に99%の裕福でない人々に利益をもたらす法律を制定したりする政府の規制力に反対している。

富裕層とそれ以外の社会との間の緊張関係は、常に政府によって調停されてきた。すべての経済は混合経済であり、あらゆる経済を理解し、国民所得計算の形式を設計するための鍵は、政府と民間部門との関係、および民間部門をFIRE「サービス」と、そのFIRE部門に経済レントと利子を支払う生産経済とに分けることから始める必要がある。公共政策は常に、上層部の富裕層と経済全体のどちらかを支援するものである。政府が「中道」を歩んでいるように見せかけても、それは富裕層に有利な現状を永続させる公共政策の隠れ蓑に過ぎず、富裕層は常に政府や公共政策に影響を与え、コントロールするためにその富を利用してきた。

政治的民主主義国家は、金融化されたオリガーキーになる傾向に抵抗するために、あまり効果的であることを示さない。このような運命を避けるには、富裕な金融階級に支配されない強力な中央権力が必要である。歴史上、それが実現したのは、宮廷支配者(青銅器時代の近東)か、今日の社会主義経済圏に限られている。

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