ロジャー・シュレフラー「豊田章一郎(1925-2023年):個人的な追憶」

ロジャー・シュレフラー氏は、日本自動車特派員として約40年の経験を持つベテラン。1990年代からそのほとんどの期間、ウォーズ・オートモーティブの代表を務め、日本外国特派員協会の前会長でもある。

Roger Schreffler
Asia Times
2023年3月11日

1982年から1992年までトヨタ自動車の社長、1992年から1999年まで会長だった豊田章一郎氏が、2月14日に逝去した。97歳でした。

豊田氏(工学博士で、誰もがドクターと呼んでいた)は、1980年代半ばに来日した際、私が最初にインタビューした自動車業界の幹部の一人だった。

その時は、自動車業界の偉大な人物を目の前にしているとは、まったく思ってもみなかった。彼は2007年に自動車殿堂入りを果たし、日本人としては8人目の栄誉に輝いた。

私たちはまず、当時も今も話題になっている貿易の話をした。

1985年、日本は過去最高の670万台の自動車を輸出し、そのうち米国向けは310万台で、これも過去最高であった。トヨタ自動車の創業者である豊田喜一郎の息子である豊田は、トヨタ自動車の社長であった。豊田氏は、トヨタ自動車販売社長、取締役副社長、専務取締役などを歴任してきた。

日本の自動車メーカーは1981年、前年に記録的な赤字を出したアメリカのメーカーが事業を立て直す時間を与えるため、数年間輸出を制限することで合意していた。1979年のエネルギー危機とそれに続く不況で、ビッグスリーは燃費の良い小型車で日本勢に対抗できず、デトロイトに大きな打撃を与えた。

輸出割当は「自発的」なものであった。しかし、実際にはそうではなかった。日本の強力な国際通商産業省が提案し、業界が従わないなら実施するよう閣議決定すると脅したのである。

しかし、結局はピックアップトラックの出荷を増やすことで、この協定を部分的に回避することに成功した。

私は豊田に、日本の貿易黒字が拡大していることについて質問した。しかし、1985年のプラザ合意で主要財務大臣がドルの切り下げに合意したことで、ドルベースで日本の黒字は当時の史上最高水準まで拡大した。

彼は、日本が何か不適切なことをしているという私の前提に反対した。礼儀正しくも毅然とした態度で、「輸出抑制を続ける理由はなくなった」と指摘し、米国の自動車産業が明らかに「回復」し、失業率が低下したことを挙げた。

また、貿易収支のバランスを取るために為替に頼りすぎるのは良くないと助言した。「米国の貿易赤字は、多くの要因から生じている」と警告した。その中には、米国市場における日本車の相対的な価格非弾力性も含まれていた。

今にして思えば、豊田は私たちが議論した問題のほとんどについて正しかったと思う。1980年代になると、ビッグスリーは日本で車を売ることにはあまり興味がなかった。日本の自動車メーカーにアメリカでの販売を減らしてもらいたかったのだ。それが彼らの利益だったのだ。

そして、彼は予測しなかったが、ドルの切り下げに続く円高によって、日本の自動車メーカーはより多くの事業を北米やヨーロッパに移転させることが安くなった。それは、まさに算術だった。

その中で最も印象に残ったのは、トヨタの「保守的」な経営姿勢について質問したときの言葉だ。当時、トヨタは、豊田社長の遺志を継いで、北米や欧州への大規模な海外進出を果たそうとしていたところだった。

「石橋をたたいて渡る」という日本のことわざを引用し、「慎重であれ」というアドバイスをした。そして、「トヨタの場合、渡らないことが多い。と言って、大笑いしていた。

しかし、現実は違っていた。トヨタは、ホンダと日産に続いてアメリカ市場に進出し、ホンダはカナダに進出したが、いつものように「トヨタ・ウェイ」(2003年に出版されたトヨタに関する本のタイトル)で、1984年にカリフォルニアでゼネラルモーターズと自動車生産の合弁会社を設立して初めて進出することになった。この合弁事業で経験を積んだトヨタは、1995年12月、北米での生産に12億ドル(ケンタッキー州に8億ドル、オンタリオ州に4億ドル)を投資する計画を発表した。

その数年後には、英国での自動車生産に7億ポンドを投じることを決定した。

もう後戻りはできない。そして、トヨタがどこまで私腹を肥やすか、その限界はほとんどなかった。最終的には、米国とカナダの生産拠点に約310億ドル(米国で250億ドル、カナダで60億ドル以上)を投資することになった。

豊田が社長在任中、世界生産台数は320万台から470万台に増加し、1992年に弟の達郎に経営の舵を切った時には、海外生産比率は16%に達していた。現在では、海外生産比率は65%に達し、為替レートの変動からトヨタを守ることができるようになった。

また、1989年にレクサスブランドを導入したのも彼の時代である。そして1992年、社長から会長の座に移る前に、ブランドのフラッグシップモデルであるLS400が、JDパワー社の顧客満足度調査と初期品質調査の両方で、欧米の主要高級ブランドを抑えて第1位を獲得する。

その後、私は豊田と2度、時間をかけて会談することになる。1994年、私は日本外国特派員協会での昼食会に彼を招待した。彼は、影響力のある日本経済団体連合会の会長に就任したばかりで、伝統にとらわれず、外国人記者を前に就任演説をすることにした。

トヨタ自動車に言及せず、「すべての」日本の産業を代表している、と言ってほしい、というのが彼の要求だった。

私は、トヨタ自動車が愛知県にある「それほど大きくない会社」の社長であることを3、4回紹介し、抗議するよりも、その気にさせた。彼は、今度は冗談だと言って笑った。楽しくて仕方がなかった。

それから20年近く経った2012年、彼が名誉会長を務めるインテリジェント・トランスポート・システムズ・ジャパンの懇親会で再会を果たした。1994年、当時はVERTIS(Vehicle, Road and Traffic Intelligence Society)と呼ばれていたITSの組織設立の原動力となったのが彼であった。当時は、VERTIS(Vehicle, Road and Traffic Intelligence Society)という名称で、1994年に設立された。

2年前、まだトヨタ自動車の社長1年目だった昭夫氏が、トヨタ車とレクサス車の急加速でアメリカ国内だけで100人近くが死亡するという、おそらく社長就任以来最大の危機に直面したとき、息子さんが議会で証言したことを中心に、楽しい会話をすることができた。

豊田社長の傍らには、長年トヨタ自動車で通訳を務めてきた森田恵子さんが立っていた。私は、この日の公聴会をリアルタイムで見ていて、議員たちが昭夫氏に対して厳しい対応をしたことに一線を越えていると感じたので、彼女は、英語を話す昭夫氏が日本語で答える前に、彼らの質問を完全に日本語に翻訳して、この日を救ってくれた。そして、昭夫が日本語で答える前に、昭夫の返答を英語に翻訳するのである。

その結果、質問、特に「やらせ質問」が減り、アキオの舌足らずな発言もなくなった。

豊田は逝去当時、まだ組織の名誉会長であった。また、トヨタ自動車の名誉会長でもあった。

妻と娘に加え、父の死の3週間も前に会長の座に就くことを発表していた息子の昭夫が遺された。 昭夫氏は、4月1日に佐藤幸治氏が社長に就任する際、円滑な移行を図るため、代表取締役として留任する。トヨタは、4月24日に東京で告別式を行うことを発表している。

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