マイケル・ハドソン「超帝国主義」p.415

1960年の選挙の年にはすでに、米ソはある程度正常な通商関係を築きかけていた。アメリカは第二次世界大戦の債務を清算するためにロシアに8億ドルを要求し、ソ連は3億ドルを提示した。後に『国際通貨金融政策に関する国家諮問委員会』がこの交渉を説明したように、「アメリカは、ソ連に最恵国待遇を与える協定を同時に締結し、アメリカの長期債権をソ連に拡大するというソ連の立場を受け入れることができなかった」ため、交渉は打ち切られた。しかし、それから12年後の選挙の年に、アメリカはソ連の条件を受け入れることになった。1972年7月、ニクソン大統領のモスクワ訪問の最後に共同宣言が発表され、第二次世界大戦に起因するレンドリース債務を十分に清算することを条件に、ソビエト・ロシアに最恵国関税待遇を与えるよう議会に要請した。結果的に、アメリカは間もなくソ連に穀物を売却し、NATO国境を越えてソ連軍に食糧を供給することで、ヨーロッパの兵力支援費用を賄うことになった!

ソ連は、1945年10月15日に「最終的に総額2億2250万ドルにのぼる『パイプライン』納入の代金を、年利2.375%で年22回の分割払いで支払うことを引き受けた」ことで、アメリカ財務省と合意に達することができた債務の一部について、定期的な支払いをしていた。ソ連はこの勘定で毎年支払いを続け、1970年12月31日現在、総額1億8700万ドルを支払っていた」。しかしソ連は、アメリカが北ベトナムを空襲した際にハイフォンの港でソ連の商業船が被った損害に対する8800万ドルなど、アメリカが認めていない控除を行っていた。さらにアメリカは、ソ連が第二次世界大戦終結時にまだ使用されていた民生品に対して約26億ドルの債務を負っていると主張した。これらの債務は、1972年夏にソ連の外交官がワシントンに到着したときにようやく交渉されることになった。

アメリカはまず、1960年の協議以来、約2億ドルの利子が発生していると主張し、約10億ドルの支払いを求めた。ソ連は3億ドルを支払うという1960年の申し出で対抗した。中間レベルの5億ドルで合意し、あとは支払い条件だけが決着することになった。ソ連は、第二次世界大戦後にイギリスが受けたのと同じ待遇、つまり30年間で2%の利子を要求した。アメリカは、そのような条件はもはや適切ではないと説明し、同じ30年間で6%の利子を提案した。最終合意は10月18日に成立し、ソ連は今後29年間で7億2200万ドルを支払うことになった。「その代わり、ニクソン大統領は......輸出入銀行に対し、ソ連に最恵国待遇を与える権限を付与した。」